仕事の資料等から少しずつまとめております。この略歴は全て正しい。という事ではございません。ご了承下さい。
Webで検索出来る人物は名前のみ掲載していきます。
江戸中期から明治維新。
明治3年9月17日。中野町陣屋には県庁が置かれ、中野県が誕生しました。
そして同年12月19日。中野騒動。明治4年6月22日。県庁の移設…。
長野県の誕生。中野にとっても激動の時代。調べていても複雑で興味深い幕末の時代。消失し、当時の地元資料はあまり残っていません。
地元文化に対する関心も薄まり。聞ける方・知ってる方は減るばかり。ネットで調べても出てこないような人物を含め交流関係などを覚書程度、少しずつ勝手気ままにまとめていけたらと思っています。
芳仙洞 北岡隆洞
~中野町~
中野町生まれとされている。建長寺、大徳寺にて学び,1337年に臨済宗妙心寺派の大本山妙心寺を開山した。
~中野の文化の発祥とも言える 「晩晴吟社」の中心人物 5名~
晩晴吟社・・優れた詩人たちは全国的にも知られ、近隣との交流も盛んに行われていった。
宝暦13年(1763年) - 文政2年7月10日(1819年8月30日)江戸時代の漢詩人。
はじめ、名は謙、字は益夫、通称は門作。のち、名は昶、字は永日。号ははじめ舒亭と名乗り、後に如亭とする。
遊歴の詩人として生きる如亭は、まず信州中野(長野県中野市)に居を定め晩晴堂と名づけ、晩晴吟社をひらき、近隣の人々と詩作に励んだ。
1770-1841江戸時代後期の儒者。
名は顕孝。字(あざな)は文静,太古。通称は荘(庄)左衛門。別号に宝善堂。
明和7年生まれ。信濃(しなの)東江部村(長野県中野市)の豪農。亀田鵬斎(ほうさい)に学び,漢詩の結社「晩晴吟社」を興す。
天明の飢饉(ききん)では施米を行い農民を救済した。信州中野文化における重要な人物。晩晴吟社については多くの人が研究している。
この山田邸から 洋画家「高橋由一」筆、山田荘左衛門肖像画が発見された。
山岸蘭腸(やまぎし らんちょう)
江蘭腸は、山岸蘭腸(1776~1837)で、江は修姓、蘭腸は字。名は自芳、通称は魯庵。号は梅堂。
信州中野で医を生業とし、晩晴吟社に参加して詩を能くし、また俳諧にも通じた。
梅堂宅には小林一茶が逗留している。
中野袋屋6代目。令和5年頃まで袋屋美術館があった。
山岸梅塵(やまぎし ばいじん)
山岸蘭腸の子。中野袋屋7代目。
畔上聖誕(あぜがみ せいたん)
高聖誕、高梨聖誕(1774~1822)。高は修姓、聖誕は字。名は魯、または一魯、号は紅葉。
如亭の門人である木敷百年(1768~1821)とともに、如亭が寛政年間に信州中野に開いた晩晴吟社の双璧とされる。
木敷百年(きしく ひゃくねん)
1768~1821年。水内郡蓮村(みのちぐんはちすむら、飯山市蓮)で庄屋をし手習師匠もした。文化3年(1808年)に請われて江戸に出て53歳で客死した。
小林一茶(こばやし いっさ)
言わずと知れた偉大な俳人
関長年(せき ちょうねん)
文化10年(1813)~明治10年(1877)65歳没。
松川村生まれ。豪商・町田忠右衛門の二男。名は信。14歳で関家の養子となった。天保3年、20歳の時に江戸に出て大西椿年に師事した。
天保9年椿年から長年の号を与えられた。26歳で長崎に行き、清国人から隷書を学んだ。茶の湯や琴の演奏でも知られた。
四条派の師風にそった人物画や花鳥画を描き、安政6年法橋位。さらに文久3年には法眼の位を得た。明治維新の動乱期に帰郷。
長年が移り住んだ庵には大黒堂があった。しかし、中野騒動で消失。後に郡役所となる地に引っ越した。(すぐそば。同じ村内)
その際に大黒堂を新設したと思われる。木造大黒天像には「長年」の銘がある。
明治29年(1896)郡役所設立の為、現在の場所に大黒堂を移設。大黒堂の裏には大黒天の祠がある。
門人(友人)に児玉果亭がいる。
西原亦庵(にしはら えきあん)
豊野町浅野から移住してきた詩人。果亭や丈親、鄭庵らと詩に励んだ。
高野鄭庵(たかの ていあん)
漢詩人。
岡本 浩庵(おかもと こうあん)
蘭学医。漢詩人。
傳田丈親(でんだ たけちか)
中野町、王日神社神職。
漢詩をよくし、中野町最大の寺子屋を開いていた。明治6年に没。号に寸斎・星洲などがある。
詩友である児玉果亭に依頼した、巨大な幕絵2点(明治2年の作/士長 印。果堂時代)は今も残る。
なぜこんな大作が2点なのか、用途は何だったのか。どうして 鼠と大根図(大黒天図)と舌切り雀図(恵比寿図)なのか…。
町田謙斎(まちだ けんさい)
嘉永元年(1848)~大正元年(1912) 65歳没。
渋温泉津端屋の子として生まれた。果亭の家、「山本館/現在は一乃湯 果亭」はすぐ隣。名は義平。後に中野町の町田家「中野中町上 楽善堂薬舖」に養子入り。
薬のほか、絵具・染料・墨・筆なども販売しており、果亭も愛顧していた。大商人であり、書家でもあった。
果亭のパトロン的役割も果たした。
町田湘湖(まちだ しょうこ)
明治16年(1883)~昭和32年(1957) 74歳没。
町田謙斎の子。松本楓湖に師事した。
児玉果亭の友人でもあり、明治8年10月。王日神社(傳田 秀輔/ほすけ・丈親の子)に逗留している。
菊池契月(きくち けいげつ)
明治12年(1879)11月14日~昭和30年(1955) 75歳没。
長野県下高井郡中野町(現在の中野市)で素封家の細野勝太郎・はつ夫妻の次男として生まれる。
少年時代から絵を描くことを好み、1892年(明治25年)、13歳で山ノ内町の渋温泉在住の南画家・児玉果亭に入門、「契月」の画号を与えられる。
小学校高等科卒業後は呉服屋、製糸工場、町役場で勤務し、そのかたわら中野町に滞在中であった高島雪松に私淑。
やがて画家として立つことへの思いが止み難いものとなり、1896年(明治29年)、町田曲江とともに故郷を出奔、京都に出て南画家・内海吉堂に入門。
翌1897年(明治30年)には彼の勧めに従い、18歳で日本画家・菊池芳文(1862年-1918年)の門下に加わった。
菊池芳文は幸野楳嶺門下。同門の竹内栖鳳・谷口香嶠・都路華香とともに「門下の四天王」とも呼ばれた、京都画壇正統の四条派の画法を会得していた画家である。
彼のもとで研鑽を積み、入門の翌年の1898年(明治31年)には第4回新古美術品展で『文殊』が一等賞を得た。
さらにその翌年には第2回絵画共進会展に出品した『資忠決死』も一等賞となる。
その後も毎年受賞を重ね、1906年(明治39年)27歳で芳文の娘・アキと結婚、菊池家の婿養子となり、以後菊池姓を名乗った。
夫妻の間に1908年(明治41年)に生まれた長男・菊池一雄は長じて彫刻家、1911年(明治44年)に生まれた次男・菊池隆は日本画家となった。
創設されたばかりの文部省美術展覧会(文展)でも、1908年の第2回展で『名士弔葬』が二等賞、翌年の第3回展で『悪童の童』が3等賞。
その翌年の第4回展では『供燈』で二等賞を受賞。
同作は1911年にローマで開催された万国芸術博覧会にも出品。またこの年には京都市立絵画専門学校の助教諭となった。
1945年(昭和20年)の終戦後は、同年の『富士出現』を最後として大規模な作品の制作からは遠ざかった。
同年の作である『小堀遠州』は水墨画風の洒脱や軽妙を見せるもので、契月が新たな境地を切り開いたことを示す。
以後はこうした小品が創作の中心となったが、その背景には、持病の高血圧症の悪化による体調不良もあった。
1947年(昭和22年)に日本芸術院会員、1950年(昭和25年)には京都市立美術大学名誉教授、1954年(昭和29年)には京都市名誉市民となる。
同年には平等院鳳凰堂の壁画模写の指導にあたった。その翌年の1955年(昭和30年)9月9日、脳塞栓により自宅で死去、75歳没。絶筆は『源氏物語挿図』。
京都市美術館で市民葬が営まれ、死の翌年には京都と東京で遺作展が開催された。
明治12(1879)年3月3日~昭和42(1967)年6月5日。88歳没。
下高井郡中野町(現在の中野市)の雑貨商を営む家に生まれた。
少年の頃から、小学校の同級生だった菊池契月、金井一章らとともに渋温泉の児玉果亭に学んだが、家族に画家になることを反対され、17歳の時に菊池契月とともに郷里を出て
京都で南画家内海吉堂に師事。明治40年上京、寺崎広業に入門、白馬会研究所で油絵を黒田清輝に学んだ。同年東京勧業博覧会で「仏陀の光」が1等金牌。
また第1回文展「悲報に接したる仏徒の歩み」が3等賞受賞。43〜大正2年欧州留学、帰国後官展へ出品。戦後日本画院同人、信濃美術会会長を務めた。
他に「三大門」「若き鹿と孔雀」「哀愍」など。
佐野光穂(さの こうすい)
1896年(明治29)~1960年(昭和35)
日本画家。長野県中野市金井生まれ。名は金治郎。初号は省峰。別号に契明・泥牛・欣次郎・晃林・如拙・如拙庵等。
初め同郷の菊池契月に入門、四条派を修めるが、のち冨田渓仙の門に転じ、院展で入選を重ねる。
渓仙流の新南画的作品や琳派風の花鳥画を能くした。日本美術院院友。昭和35年(1960)歿、65才。
芳仙洞の屋号を揮毫して頂いている。
金井一章(かない いっしょう)
明治12年(1879)~昭和19年(1944) 64歳没。
明治12年下高井郡中野町(現在の中野市)生まれ。名は忠三。生家は繭糸業を営んでいた。小学校の同級生に菊池契月と町田曲江がいた。
渋温泉で児玉果亭に南画の手ほどきを受け、その後上京して川端玉章に師事、東京美術学校日本画科選科に進み、明治35年卒業した。
卒業制作が好評で、玉章門下で結成された天真社でも注目された。明治40年東京勧業博覧会に出品したが、同年創設された文展には出品しなかった。
明治42年に師の玉章が川端画学校を開設した際には助手として協力した。玉章没後は、町田曲江の勧めで寺崎広業に入門した。
昭和初期に満州大連に単身で渡り、大連で多くの画会や展覧会を開催したが、寒気のため神経痛が悪化して帰国、郷里に帰ってからは中野と渋温泉で湯治をしながら絵を描いた。
晩年は町田曲江の勧めで千葉県市川市に転居した。画歴は不明な点が多い。昭和19年、64歳で死去した。
~小布施~
文化3年3月15日(1806年5月3日~明治16年(1883年)2月6日)江戸時代の浮世絵師。近隣の文化における中心人物。
葛飾北斎の門人。本姓・市村、名・健。俗称・三九郎。字・士順。
信濃国高井郡小布施村(幕府領・松代藩)の豪農商、高井家10代目・熊太郎(30歳)と母・こと(23歳)の四男として生まれる。
高井家は、7代目徳左衛門、8代目作左衛門、9代目長救(ながひら)、10代目熊太郎と代々、営々と酒造業で富を築き上げてきた。
この8代目作左衛門が、鴻山の祖父で、天明の飢饉時に、倉を開放して、その巨万の富を困窮者の救済に当てた。
それが、幕府に認められて、「高井家」の苗字帯刀を許可された。
書を貫名海屋に、絵画を岸派の岸駒、岸岱親子と浮世絵師の横山上龍に、国学・和歌を本居宣長派の城戸千楯(きど ちたて)に、儒学と漢詩を摩島松南に師事している。
梁川星厳に入門し,佐久間象山,大塩平八郎など多くの文化人と交流がある。
小布施町に鴻山記念館がある。
宝暦10年9月23日?(1760年10月31日?)~嘉永2年4月18日(1849年5月10日)
日本の近世にあたる江戸時代に活躍した浮世絵師であり、とりわけ後期、文化・文政の頃(化政文化)を代表する一人。
代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』等、世界的にも著名な画家である。
弘化5年(1848年)、北斎(89歳)は、4度目の小布施来訪時、岩松院の天井絵を完成させている。
小布施町中心地に北斎館があり、所蔵品が展示されている。
寛政元年6月18日(1789年7月10日)~安政5年9月2日(1858年10月8日)
江戸時代後期の漢詩人。名は「卯」、字は「伯兎」。後に、名を「孟緯」、字を「公図」と改めた。
通称は新十郎。星巌は号。別名:孟緯,伯兎,公図,無象,新十郎,百峰,天谷,老龍庵,詩禅,懶和尚,三野逸民。
漢詩一筋に生きた星厳の玉池吟社には3000余人の門人が集い隆盛を極めた。川中島古戦場周辺で詠まれた句がある。
記録はないが、親しい鴻山を訪ねて小布施や中野に来た可能性も、想像に難くない。
文化11年(1814)~明治43年(1910)
梁川星巌やながわせいがんの門に入り幕末期は国事に奔走。明治維新後上京して詩作に専念。
大沼枕山(ちんざん)・鈴木松塘(すずきしょうとう)とともに明治の三詩人と謳われた。
初めは父・横山玄篤の業を継いで医術を修めたが、梁川星巌が起こした玉池吟社の社友となり頭角を現す。
須坂以北、信州中野や山ノ内町にも作品が残る。
宝暦2年9月15日(1752年10月21日)~文政9年3月9日(1826年4月15日)
江戸時代の化政文化期の書家、儒学者、文人。江戸神田生まれ(上野国邑楽郡富永村上五箇村生まれの異説あり)。
鵬斎は号。名を翼、後に長興に改名。略して興(おこる)。字は国南、公龍、穉龍(ちりゅう)、士龍、士雲、公芸。幼名を彌吉、通称 文左衛門。
歴代須坂藩主や藩士は藩校(立成館)で亀田門下などから儒学を学び、亀田一色となった。
その為,須坂は鵬斎と子の綾瀬、孫の鴬谷、曾孫の英との深い係わりがある。
鴻山の師。
鴻山の師。
鴻山の師。
鴻山の師。
鴻山の師。
佐藤一斎門人。鴻山の友人でもある。
佐藤一斎門人。鴻山の友人。
鴻山の友人。
高津菁斎(たかつ せいさい)
鴻山の詩友。現在、菁斎宅跡地には桜井甘精堂泉石亭が建っている。
今井素牛(いまい そぎゅう)
小布施で活躍した漢詩人であり、神職。「今井素牛之日記」には当時の様子が分かりやすく読み解かれている。
井上椿園(別名:茂庭 徹/いのうえ ちんえん/もにわ とおる)
別号を華岳。善光寺 旧念佛堂 主人と思われる(現在は長野市立城山小学校が建っている) 旧仙台藩士。明治5年没。師範学校の助教授。素牛の日誌に登場する。
中野町の人。ともあるが作品は極少ない。山ノ内町と中野市内宅。近隣含め二件しか確認されていない。情報求む。
~須坂~
~松代~
~果亭関連~
児玉 果亭(こだま かてい)
天保12年1月29日(1841年2月20日)~大正2年(1913年1月14日)72歳没。
果亭は信州渋温泉で生まれ育ち、郷土愛の強い画家として知られ、多くの作品が残る。
幼名を丑松。諱は道広。字を士毅。 画号に玄山・果堂・雷雲子・士長・果亭・果亭山人・果亭酔史・果道人・澹々齋・果老生・果翁・果生など。
佐久間雲窓・畔上楳仙に学び、明治8年 京都・田能村直入に師事。9年帰郷。19年の東洋絵画共進会で銀賞。
これを機に果亭の名声は全国に轟き、青柳琴僊・小坂芝田・菊池契月ら多くの門人を輩出した。
明治13年(不確定)頃、渋に画室を作った。竹僊居/竹僊屋/竹僊山房(命名は田能村直入)という。その中の部屋を得中室/得中閣と呼んだ。
黙契神會艸堂という画室名が入った作があるが、竹僊山房を建てる以前の画室なのか、竹僊山房は何度も罹災しているのでその間の庵をそう呼んだのかまだ確定していない。
2020年。元 水野美術館の高田紫帆学芸員の調査により、中野市・王日神社蔵 果亭筆の幕絵2点(縦2.4x横7.5m)が真筆と確定した。のち中野市の文化財に指定された。
裏打ちがされておらず損傷も多い、修復が望まれる。
畔上楳仙(あぜがみ ばいせん)
1825-1901江戸後期-明治時代の曹洞宗の名僧。
文政8年7月15日生まれ。下総(しもうさ)孝顕寺の月山,相模(さがみ)松石寺の国隠らに学び,郷里の信濃に戻り,山ノ内町佐野にある興隆寺の活英の法を継ぐ。
明治13年総持寺貫主,翌年曹洞宗管長。明治34年12月27日死去。77歳。号は大岡。諡号(しごう)は法雲普蓋禅師。
児玉果亭の師。
佐久間雲窓(さくま うんそう)
享和元年(1801)~明治17年(1884)84歳没。
飯山藩生まれ。通称は伴右衛門。南画の大家谷文晁の門下、鏑木雲譚(うんたん)について花鳥画を学び、師雲譚の一字をもらって雅号を雲窓とした。
渡辺崋山推薦の逸材椿椿山の元で研鑽を積んだ後、郷里飯山に帰郷。 雲窓は武士としての公務のかたわら、寸暇を惜しんで身の周りの風物を描き続けた。
児玉果亭の師。
新井 石禅(あらい せきぜん)
元治元年12月19日(1865年1月16日) - 昭和2年(1927年12月7日)曹洞宗の僧。最乗石禅、雲洞石禅など。
陸奥国伊達郡梁川村(現福島県伊達市)に生まれ、興国寺住職の新井如禅の弟子となる。
曹洞宗専門本校に学び、畔上楳仙、森田悟由らに参禅した。雲洞庵、最乗寺などに歴住し、曹洞宗大学林学監、大本山總持寺独住5世、曹洞宗第11代管長となる。
国内、海外の巡教は数百か所に及び、その徳化は一世を風靡して、生き仏と仰がれた。
*様々な資料を元に編集、掲載致しております。縁深い方々は、まだまだ沢山いらっしゃいます。随時追加・編集していく予定です。
参考文献
・ 『菊池契月とその系譜』塩川京子著(展覧会図録「菊池契月とその系譜」所収)
・長野県美術全集 第4巻
・北信濃の美術 十六人集
・信州の美術
・郷土作家秀作展(信濃美術館)
・長野県信濃美術館所蔵品目録 1990
・松本市美術館所蔵品目録 2002
・長野県美術大事典
・東町区史「ひがしまち」
・松川区史
・中野町史
・ 高井鴻山伝(高井鴻山伝編纂委員会編纂 小布施町)
・高井鴻山夢物語(山崎 実 著/高井鴻山記念館 出版)
・続・高井鴻山夢物語(山崎 実 著/高井鴻山記念館 出版)
・ 高井鴻山を支えた契斎関谷与市(著者 山崎実/須坂新聞社 編)
・画仙 児玉果亭の生涯(山本秀麿 著「児玉果亭の生涯」刊行事務局)
・実説信州飯山騒動 : 西原九兵衛とその子亦庵の記録(西原三郎 編著)
・「今井素牛之日記」(編者 今井素牛之日記編集委員会)
・Wikipedia
・コトバンク